朝。
誰もいない教室。
少しだけ物悲しく感じる広い空間を見回して一点で目を留める。
彼はまだいない。
それを確認して、残念なような、嬉しいような複雑な気持ちで窓の外を見上げる。
今日もまたいい天気だ。
思って、机をよけながら、窓に近づく。
勢いよく開け放った窓から初冬の冷たい空気が入ってきた。
あぁ今日も思い出作りが始まる。
切ないと訴える心を打ち消して、先のことなんて忘れてしまう。
未来を思い煩っている暇はない。
卒業まであともう少し。
一人きりの教室でなんでもない風を装いながら机に向かう。
そのくせ心臓はどきどきで、神経質なほど意識は教室の入り口へ向いていて。
落ち着きのない自分に毎朝笑えてしまう。
そうしていると、いつもまだ人気のない廊下から足音が聞こえてきて、
私はいっきにあたふたとし出す。心の中で。
いつも通りの毎日。
あと何回?
あと何日、こんな毎日が続けられるのだろう。
沈む心を振り切るために、顔をあげたとたん
かたり、と音がしてドアの方を振り返る。
期待で一瞬にして踊った心をどうか見透かされませんように。
あぁ、どうしてだろう。
笑顔しかでてこないのは。
「おはよう」
人と話すことがあまり得意ではない私は、自分から挨拶することにとても勇気がいる。
でも、彼だから頑張る。
目に入ってきたのが彼だったから、するりと言葉がでてくる。
自分に誓った。絶対絶対、挨拶だけは忘れない。
好きになってもらえる努力をするんだ。
言った私に彼はゆるく口角をあげて、同じように「おはよう」と返してくれる。
ドアの近くにいる私の側を通り過ぎて、自分の席へ向かおうとしていた彼がふっと立ち止まった。
「…、また宿題やってないのか?」
私の机の上をちらりと見て言った彼に、私は「…………うっ」っと呻いた。
言われた通り、机の上には彼が来る直前まで解かれていた問題集が広がっている。
「…やってくる人の方が珍しいんだよ」
「どうせ柳くんはやってあるんでしょう?」聞かなくても分かる事実を言外に含める。
半ば呆れたようにして見てくる彼の視線に拗ねたように、ふいと顔をそらす。
「成績いいくせに、なんでそういうのはやらないんだろうなは」
「成績と宿題は別だよー」
「別じゃないと思うけどな」
かすかに笑った彼の表情に心臓が大きく飛び跳ねる。
動揺するな、私。
動揺したら最後、会話の脈絡がめちゃくちゃになるに決まってる。
自分の席に鞄をかけてる彼を見ながら
あぁどうしよう。次の会話…。なんてテスト中でも使わないようなスピードで頭をフル回転させる。
わからない。みつからない。
何を話したら彼は楽しんでくれるだろう。
わからないのに、みつからないのに、
目が勝手に彼を追う。足が勝手に彼の所に向かってしまう。
「……ねぇ、この問題わかる?」
あぁ、私の馬鹿。
そんな簡単な所を聞いてどうするんだ。
第一そこは先生がちゃんと説明してくれた問題でしょう。
馬鹿かって思われちゃう。こいつあほか実はって。
…どうしてその下の問題を指さないの私。
「……………は理科苦手だったか?」
一瞬の、随分たっぷりとした一瞬のあとそう言った彼は、
「俺のデータでは――…」と眉根を寄せて記憶の中のデータと目の前の現実の不一致さを不思議がっている。
ごめんなさい柳くん。貴方のデータは間違ってないです。
苦手なのは理科じゃなくて、貴方との会話の始め方です。
心の中で項垂れてみる。
そしてどうにかこの場をやりすごそうと、しどろもどろになりながら言い訳をはじめる。
「いや、…あの、理科は別に苦手なんじゃないんだけど、
えっと、ねぇ、あっ!そう。物理は苦手なの。物理は!」
「……?こないだのテスト成績上位者に入ってたじゃないか」
「…!えっ、あ?うん。ねぇー?あはは。ああ、あれだよ。
物理にもあるじゃん?いろいろ種類が。ここら辺は苦手なんだよ」
うん、きっとそう!と妙な自身を持ちながら言った私に
彼は微妙に変な顔をしながらも納得してくれたようだ。
「そうか」と、気づく人には気づかれるだろう程度に楽しげな色が含まれたその言葉に
あぁきっと今のことは彼のデータにインプットされたんだなと落ち込む。
…次のテスト、どうしよう。
解き方を教える体勢に入っている彼を見ながら心の中でため息を一つ。
どうしようかと考えながら、空いている前の席に腰掛ける。
毎朝この席に座る努力を何回してきただろう。
今回はその中でもダメダメだ。
自分の不甲斐なさに落ち込みつつも、顔を上げて至近距離で彼を見た瞬間、
やっぱり私はいつものように、ただただ幸せに包まれる。
一秒でも長く、一瞬でも長く、
貴方の近くで、貴方の言葉を聞いて、叶うなら貴方の笑顔が見たいです。
叶うなら貴方の一番側にいたいです。
もしも願いに気づいてもらえるなら、
どうかどうか貴方に好きになってもらいたいです。
卒業まであともう少し。
「柳」
そう呼ばれる声になぜかまで意識を持っていかれる。
彼の名前が出てくるだけで反応するようになったのはいつからだろう、と。
声のした方に向かっていく柳を何気ない様子で見つめながら自分の重症さを改めて知る。
気づかれないようと思ってはいるものの、
傍から見れば分かりやすいことこの上ないの態度に、
数秒前まで一緒に談笑していた彼女の親友が笑った。
「ねぇ」
そう友に名前を呼ばれて、視線を移そうとしたものの心の半分は柳に惹き付けられたまま。
聞こえてる?と次いで聞こえた声にしぶしぶと目線を向けてきたに目の前の彼女は再び笑う。
「また彼?好きだねぇ」
その時、教室の向こう側で柳の目線が動いた。
は全く気付かない。
密かな彼の動きに気付いていたのは彼女の親友ただひとりだった。
――いつも。
「あたしと話してても、話しかけられると問答無用で向こう優先。
何かあったら飛んでくし、その犬っぷりが可愛いよ」
でも。
どっちかって言うと。
心のなかでぽつり呟く。
向こうの方が好いてるように思うんだけどね。
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