SANGOKU MUSOU









この世界には多くの悲嘆が溢れていて、あたしの心はその痛みに嘆く。
三国時代―それは名高き中国の乱世。
あたしの祖国 ・日本とは、時代も場所も全く違う―異国の大地。





水端(みずはな)が終わらなくても








「司馬懿さま」


足音にも人の気配にも全く気に留めることなく書簡と格闘している人に呼びかける。
お茶をお持ちしました。その一言にあなたは目も向けない。
それが最初は不安で恐ろしく、ずうっと続く沈黙にいたたまれず何度部屋を飛び出したいと思っただろう。
思ったばかりでなく、何の返事も返ってこない空気に耐え切れなくて卓の上に茶碗を置き、
逃げるように部屋を出たのは十を数えてもたりないかもしれない。
けれど何の気まぐれか、ある日部屋を飛び出した後その場にとどまったあたしは
お茶を見つめて溜息を吐くその人の姿を見て、次の日からお茶を置いて逃げることをやめた。

外は雨。
あぁ、どうしてだろう?込み上げるのは。
どうしても込み上げてくるのは。
空気の湿り気。わずかな雨音。
そんな今日の天候はこの地に来た日のことを思い出させる。
しとしとと降る恵みの雨。
それはあたしにとって、痛みを伴いながら込み上げてくる望郷の念の象徴みたいなものだ。
あの日。
あちらは胸のすくような晴天で、それが瞬きのような一瞬で見上げた空は曇天へと変わった。
何をしたわけでもない。
ただ家への帰り道を歩いていたあの一瞬、ぐにゃりと世界は確かに曲がった。
たった一瞬で、確かに世界はあたしの全てを変えていったのだ。
呆然とするしかないあたしに、振りだした雨は冷たかった。
眼下に広がった建物の群は遠かった。
違う。そう分かるほど、
違うなんてうそ。そう理解できないほど、
それは奇怪な出来事で、ここは見知らぬ大地だった。


「…おい」
「……なんでしょう?」
「それはこっちの科白だ、馬鹿めが!」

冷めるであろう!茶が!!
苛立ったようにびしっと、あたしが持った盆上にある茶碗を指す。

「…冷めませんよ。お茶ですよ?熱いんですから」

何言ってるんだろう、この人。っていう目で見たら、米神に青筋がたった。
この世界に来てはじめて出会ったひと。
それが司馬懿さまだった。
あたしはこの人に会うまで、ここまで不の感情を顔に現す人を見たことがなかったな、なんて思ってみる。

身を切られるようなきつい視線から逃れるように 視線を卓の上に移すと、書簡が目に入ってしまう。
漢字一文字たりとも理解しないようにと頭に命じてから、
ふと部屋に入ってきた時よりも行数が増えていることに気がつく。
彼の仕事速度はとても速い。だけど…


「司馬懿さまいつの間にそんなに仕事を進めたんです?」


言った途端、これまたいつの間にか筆から持ちかえられていた黒羽扇がぷるぷると震えだした。
怒気が形になってみえてきそう。いつもそんなことを感じる。そしていつも怒鳴られる。


「お前が、馬鹿の様に、突っ立っていた間に決まっておるだろうがっ」


“決まっておるだろうがっ”の辺りで羽扇から妖しげな光が迸りはじめる。
一日の内、魏軍の中で必ず一人二人の犠牲をだす、彼の得意のアレである。

どくんと心臓が鳴る。
背筋を冷たい汗が流れる。
本能的な恐怖に慄く自分をしかって、励ます。


「司馬懿さま。そんなのに当たったらあたし死んじゃいます」
「…よければいいだろうが」
「あたしただのお茶汲み係りですよ。避けられるわけないじゃないですか」
「一発ぐらい当たっても死なん!」


言った司馬懿さまにびっくりする。
目を数度瞬く。
…この人は―――。

ううん、そうじゃない。この世界は――。




「死んじゃいます。少なくても、きっとあたしは」


目を見開いて動きを止めた司馬懿さまが、何にそんなに驚いたのか
あたしはいつか理解できる日がくるだろうか?
ただびとが弱いってことや人は儚いものだってことや
司馬懿さまが感じたことを、理解できる、こちらの人間になる日が、なれる日が、なってしまう日が、いつか来るのだろうか。
なんて、苦しげな、悔しげな、そんな顔をしてあたしを見る司馬懿さまを見つめながら思った。




「司馬懿さま、お茶をどうぞ」

お飲みになるんでしょう?言って卓に盆をおろす。

「あ…あ」

さっきまでとは別人のように歯切れ悪く返す司馬懿さまに胸に温かさが積もる。
優しいお方。
なんてあなたは優しいひと。
だから、あたしは――。

あたしは、あの日から逃げるのをやめたのだ。
他の何からでもない。この世界からでもない。
ただあなたから逃げることだけはしないと、そう心に――。


茶碗を口につけ、一口飲む。
何かを確認するかのようなその仕草は、あたしが来るずっと前から変わらないと聞く。
分からないことは、数え切れないぐらいにあって、
それが胸に痛いのはどんな感情からくる痛みだろう。
考えても、いまはまだ、それすらも分からない。


「美味いな…」
「そうですか?嬉しいです」

はじめてかもしれない賛辞と言える賛辞に、素直に嬉しいと言葉にして、
その一方で他人への賛辞を悔しげに言う司馬懿さまがとてもらしく感じられて、笑えてしまう。

そして笑ったあたしに、少し不本意そうにあなたは言った。

「…温度も丁度いい」

だからあたしは、泣きそうになりながら一番綺麗な笑顔であなたの言葉に答えた。

「当たり前です!…だっていつも飲めないぐらい熱いお茶をいれてくるんですから」
仕事に区切りがつかないと、決して手をとめないあなただから、
少し時間がたってからのほうが丁度いいぐらいに。






「せめて、お茶汲みぐらいは『普通』にできるようになりましたか?」
「…それくらいできんようでは能無しもいい所だ」


空になった碗を元の位置に戻しながら、司馬懿さまはどこまでも皮肉げに言う。
それでも「否」とは返ってこない答えに、とてもとても嬉しくて。
その小さな『普通』が、今のあたしのたった一つ。
ここにいる存在価値。やっとそれを手に入れたと思う。
まだ小さな。他の誰かにとっては無に等しいかもしれない価値だけれど。




何の力もなく、何の学も見出せず。
だからあなたはあたしにこの仕事をくれた。
女官でもなくて。軍師見習いでもなくて。護衛兵でもなくて。
それどころか、農民でも商人でも、職人でもない、何でもなくて、何もできないあたしに
それでも場所をくれたのはあなただった。


あなたの『普通』に、いつだってあたしの手は届かない。
あなたの放つ妖しげな光線一発にすらあたしには耐える力がない。
それが悲しくて、惨めで、一人では生きていくことすらできない、
あなたの好意で生きていられるにすぎない自分が情けなくて、
あたしはただこの世界で独りきり、膝を抱えて涙する。
雨を見るたび、感じた喪失感を思い出す。
あの世界に帰りたい。貴方に会いたい。






あたしの世界よ。あたしの国よ。


あたしはここです。
この見果てぬ大地で、あたしはいま、ここに居ます。