GENSOU SUIKODENX









表紙に植物図鑑と大きく書かれた分厚い本を膝の上に置いてながめる。
積まれるようにして重ねてあるクッションにもたれてパラパラと図鑑を捲ると『北の大陸のみに見られる』という一文を見つけて、思わずそこで手を止める。
ヤマザクラ・サトザクラ・オオシマザクラ・ソメイヨシノ…。
独特の名前と絵に描かれた心を洗うような淡色の花びら。
「さくら…?」
北の大陸の一部の地方にだけ咲く花。
彼ならば知っているだろうかと思いパタンとページを閉じてすぐ横の卓に置く。

「桜」
慣らすように一度だけ呟いて、どうしてこんなにもこの花のことを気にするのだろうと自分の行動を不思議に思う。
ただ目に留まった一ページに描いてあっただけの存在。
自分にとっての『桜』はそれだけなのに、なぜか心をざわめかせる。
考えても理由は見つからなくて、彼に聞いたらその答えも見つかるだろうかとわけもなく思った。





「桜?ああ一度だけ見たことがある」
「一度だけなの?」
「まあ春の…それも一週間ばかりしか咲かない花だからな」
その土地に住んでるかよっぽど運がよくなければ見れないだろう。
ゲオルグは言ってチーズケーキを口に運んだ。
正面に座ったセーシスは、お前も食べるか?と聞かれたのでうんと答えたら渡された綺麗に切り分けられたケーキを前に 「そうなんだ」と何の感慨もないような声音で相槌を打つ。

「だが、それがどうかしたか」
「ううん。ただちょっと…うん、気になっただけ」
自分の気持ちに当てはまる言葉を探したセーシスは一瞬だけ黙ってから言い、
飴色の鮮やか紅茶をすする。
それをゲオルグが僅かに胡乱げに見てから、視線を再び皿の上に戻して手馴れたようにケーキを小さく切り取った。
見るものが見れば実に幸せそうだというのが分かるゲオルグ視界に入れながら、セーシスは自分の気持ちを持て余して何時になくじれったい気持ちに駆られる。

―なんだろう。何かがとても不快だ。

不快、という言葉では違う気がするのに言い表せる言葉をなぜか思い出せない。
『北の大陸の一部の地方だけに咲く花』
強烈に焼き付いたその文だけが明確に心の中にあって。



「なんだお前も見てみたいのか?」
「……………え?」

セーシスは思ってもみなかったことを言われたような気がして、思わずびくりと肩が跳ねそうになるのを努力して抑えた。
言われた言葉が切りつけられたような衝撃と共に飛び込んできて、全てが止まり、ゲオルグの言葉だけを残して全てが消えたような感覚に陥って――そして、その事実にまた愕然とする。
ゲオルグはそんなセーシスを珍しいものを見たかのように見つめ、なんとも言えない顔をした。
「お前がそんなに無防備に感情を出すのは珍しいな」
「……とても不本意だけどね」
隠そうともせず苦々しげに言ったセーシスに笑う。

「どうした。俺は何かまずいことでも言ったか」
見てみたいのかと聞いただけなんだが。そう言ったゲオルグにセーシスは無言で首を振る。
そうなのだ変なことは言われていない、ただすごく驚いただけで。
自分の心がどこにあるのか分からないなんてことを始めて経験して、思わず心底困ったような顔をしてテーブルを見つめた。

そんなセーシスを見て、憂う顔も絵になるとはこいつらしいとゲオルグは思う。
彼の笑顔は万人に愛され望まれるが、苦しみや哀しみを含んだ表情を見せてほしいと望む者もまた結構多い。
支えたい、彼個人の支えになりたい、そう思う数多くの中に自分も入っていることは既に自覚していた。
本当に珍しく「困った。分からない。どうしよう」と如実に語る目で自分を見たセーシスにゲオルグはまた笑う。
――見てみたいと、そう思ったのではないのか。
遠い北の大地で咲くあの花を。


「驚いたのだろう?」
「うん」
「何にだ」
「見たいのかって言われて、思ってもみなくて驚いた」
そう言ったセーシスにゲオルグは芝居がかったように首を捻った後、そうか?と念を押して尋ねる。
「俺には思っていたことを言い当てられたから驚いていたように見えたがな」

はっと息をのんでゲオルグを凝視する。
鼓動がはねて、胸が締め付けるような痛みを生み出す。
違うと思うのに分かってしまう。分からされてしまった思いに、ああ彼になんて言わなければよかった、理由なんて知ろうと思わなければよかったとセーシスは眉根を寄せて苦しげな顔をした。
焦がれたのだ。――自分は、凄絶なほど。

「言うなよばか」そう伝えてくるセーシスの表情に、彼のその先の感情を見て、温かさと紙一重の分だけ距離のある切なさを感じる。
『気づきたくなかった思い』なのだろう、複雑な顔をして黙り込んだセーシスの目には確かに悲しみの色があって。
目の前の子供にとってきっと、この国以外に焦がれることは禁忌なのだろうと、ゲオルグはセーシスの確かな本質を理解した。
「いつか見れるといいな」
揺れるその眼差しを無視して思いを口にする。




「…いつか、僕も見れるかな?」
「…ああ。見れるさ」
お前が見たいと思いさえすれば。







いつかの遠い大地  
たとえそれが今までのお前を否定することだとしても