【バスケの青峰選手って黒子さんの幼馴染らしいよ】
ホール内に割れんばかりの拍手と歓声が響く中、青峰はじっとステージの中央に立つ痩身を見つめていた。
広いステージに一人立ち、観客から送られる称賛を全身に受けている幼馴染は、スポットライトの眩しさに少し目を細めて、常の無表情が和らいでみえる。
その姿を見る度、青峰が一番に感じているのは“こんなに綺麗ですごいもんが俺の”という優越感だった。
どんな賛辞も涼しげな顔で受け流し、音で誰をも魅了する男が己のものだと――片割れだという高揚は、満員のアリーナで極限のプレーをした時のバスケに愛されている思う感覚とよく似ている。
ステージ上では流れるような仕草で礼をした幼馴染が袖へと消えていく。
それを見やってから、用は済んだとばかりに目を瞑って意識をシャットアウトする。
基本的にクラシックは青峰の性に合わない。
肘掛に腕をのせて頬を支えてしまえば、あとは一気に湧き上がってくる眠気に身を任せるだけだ。
次いで聞こえてくる弦楽器の音は耳を素通りし、何の妨げにもならないまま意識は深く沈んでいった。
夢を見た。
まだ俺たちがほんの小さなガキだった頃の、バスケがいいと駄々をこねる可愛いテツの夢だ。
大人しくて聞き分けがいいのは昔からの性格だったが反面こうと決めたら頑固なのも昔からで、バスケの方が好きバスケをしたいと言って俺のあとをついてくる幼いテツ。
既にバイオリンの才能は周知の事実で、球技なんて指を怪我したらどうするんだと指導者に怒られるテツは痛々しい。
それをガキの頃の俺が我慢できるはずもなく、練習時間になるとよく連れ出して二人でバスケをしていた。
何をしていてもあまり表情が動かない幼馴染がバスケをしている間は楽しそうに笑い、きらきらした目で俺を見る。
それが嬉しくてやっぱりいつもテツを誘う。
テツの両親は穏やかで、何かを強制するような人たちじゃなかったからそれも許されていた。
二人が出会ってからの時間が長くなればなる程、才能の差は広がっていく。
俺はバスケの。テツはバイオリンの。
でも好きなものは変わらないままだった。
小学生だった頃のいつかの雨の日。
ボクもバスケの才能がよかった。キミと同じ才能がよかった。
震えながらほとんど泣いている顔でそう言ったテツ。
声の感じもじっと見つめてくる目も表情も、今でも覚えてるぐらい衝撃的だった。
単純な俺はテツがそんな風に思っているなんて全然気付かず、ただ一緒にするバスケが楽しいなんて気楽なことを思っていた分、それは幼心に強く突き刺さった。
強い衝撃は大した容量を持っていない頭をおかしくさせるには充分で、この時の俺はなぜか(こいつバスケがっていうか俺と一緒がいいんだな)と妙な自信とともに思った。ガキの思考回路は謎だ。
しかしそんな自信もあながち間違っていなかったらしく、雨で冷えた手を持って「才能なんか関係ねーよ!俺がいるんだからテツはずっと一緒にバスケすればいいんだ」と、そう言ったら。
デカい目を丸くしてから、テツはそれはもう綺麗に笑った。
もとから並外れた影の薄さとか全体的に白い色合いや小ささや、どこか世間離れした雰囲気に俺が守ってやらなきゃみたいに思っていたのが、ガラス玉みたいな目にうるうるされながら見たこともないぐらい綺麗な顔笑われて、コロっとならない方が無理だった。
この時からテツは、無表情で何考えてるかよく分からない、でも一緒にバスケをするのが楽しい幼馴染から俺の可愛いテツ、に変わった。
国内外で活躍する奏者たちによる今回のクラシックコンサートは、とある財団が金にものを言わせて企画させたらしい。主催者のバッハ好きがそのまま反映された曲目は、オーケストラやソロと形態は違えど全てバッハ作品で
占められている。
自身への評価を考えればあまりふさわしいと言えない場での演奏も、仕事選ぶことをしない青峰の幼馴染は一つ返事で了承したらしいと聞いた。
まわりからはいろいろ言われたみたいだが、品がなかろうが寂れていようがどれだけ小さかろうが、テツはステージという場所が好きなのだからあいつの好きなようにしたらいいと青峰は思う。
あらゆる意味で荘厳と表現できる音楽性を認められ、一流の演奏家と評価されている黒子テツヤというバイオリニストは、本質的にはクラシックというものに――むしろ音楽そのものに執着や敬愛の心を持っていない。
そんな男がバイオリンを弾く理由の大半を占めるのは自身の存在の肯定のため、と難しく言えばそうだか、ただ単に影が薄い黒子がちゃんと認識されるステージという場所が好きなのだ。
さらにそれを深めると、バスケのずば抜けた才能を持った青峰と並び立つ為に、自分の天性の才能も世に知らしめたい、というのが青峰の予想だが、傲慢なこの考えも大して外れてはいないだろうと思っている。
青峰に対する幼馴染の思いの強さは他人が考える範疇を超えるものであるし、逆にそれは一方的なものでもない。執着の強さで言ったら俺の方が上だろうなと軽く返すぐらい、青峰からのベクトルも大きい。
お互いに向ける感情は最早それが『普通』だ。
コンサート後のざわついたロビーを抜け、いつものようにバックヤードへと向かう。
青峰の雰囲気や長身が相まって生み出す威圧感に警戒したようだった警備員も、パスを見せれば妨げることはない。
あるいは顔をみてすぐに緊張を解いたことを考えれば、前にここに来た時と同じ警備員だったのかもしれない。影の薄い幼馴染とは逆に、自分が人に覚えられやすいのはこれまでの経験上知っている。
すれ違う度に訝しげな顔をし必ずパスを見るやつらを何回か視界におさめながら、一番奥まった場所の控室の前で立ち止まり迷うことなくノックする。
ガチャリと返事が返ってくる前に開ければ、そこには数人掛けのソファに座るテツがいた。
「よぉ」
「青峰くん」
背に上半身をもたれさせてどこか気怠げな様子に、だいぶキてるなと思いながら部屋に入ってドアを閉める。
「やっぱり来ていましたか」
「あぁ。お疲れ」
慰労を受け取るように薄く笑ってから、無言で右手を伸べた黒子のひんやりとした手を取ってすぐ隣に座る。
ソファの背にまわした左手で肩を抱いても嫌がるそぶりはない。
一か月ぶりに触れる肩は特別細くなっているとは感じず、取りあえずはちゃんと食べているなと考えながら別のことを口にする。
「直前まで来れるか微妙だったけど曲名知ってねじ込んだ」
「ふふ…好きですもんねシャコンヌ。バッハは特に」
からかいを含んだような声はきっと昔のいろいろを思い出しているんだろう。
無伴奏の最高峰と名高いバッハのバイオリン・パルティータ、その第2番――通称シャコンヌは、青峰の一番好きな曲でもある。
と言っても、曲自体が好きというのとはまた違う。
そういう意味を込めて「テツが弾くのがたまんねーんだよ」と言ってみても、当人は本当に分かっているのかいないのか微妙な、軽い返事だ。
「分かっています。走り出したくなる感じ、ですよね?」
何回も言った覚えのある言葉を引っ張り出してきて今日もなりましたかと首を傾ける。
聞かれるまでもない。
「当たり前だろ。最高にぞくぞくした」
「ならよかったです」
青峰の評価を気にするような殊勝なことを言いつつ、見た目はまったくの無表情。
幼いころから知っていても表情を読み取るのは至難な業であるが、そんなことをしなくてもだいたい雰囲気で本気かどうかは分かる。
いまのは結構本音っぽいなと思っていると、見上げてくる視線が何かを見透かそうとでもするかのようにじっと逸らされずにいることに違和感を覚えた。
というか、その目はなんか俺がざわざわする。
「・・・テツ、お前もしかして欲情してるだろ?」
まっすぐに見てくる目が霞がかったような色をしていることに気付いてそう言えば、凡庸とした表情のまま分かります?と聞いてくる。
青峰が演奏を聴いて高ぶることはいつものことだったが、黒子がそうなるのは珍しい。
キてる原因はそっちだったかと思いながら、肩を抱く力を強める。
逸らされることのない目の縁に軽く口付けてから、遠慮なくソファに押し倒した。
「なら話ははえーな。まだ血が騒いでてヤバいんだわ」
上に乗り上げてから屈めるように体を倒してキスをする。
まぁここでも舐めるぐらいならいけるだろうと考えながら、閉じられたままの唇に舌を這わし「責任とれよテツ」と至近距離で囁く。
されるがに身を任せていた黒子は少し考えるそぶりを見せる。
それから口を、小さく開いた。
「…あーん」
なんだそれ。
どっかのテレビで見た雛鳥が餌を待つ仕草に似ていた。
見つめれれてるのに、キス待ちには程遠い。
色気もない。
なんだそれ。
なぜ言ったし。
なんだお前それまじで。
「………かわ」
「川?」
くっそお前まじでなんなの?
撃沈した青峰は薄く開いたままだった黒子の唇に勢いよく噛みついた。
そして誘いは短時間の間に二度目の失敗をすることになった。
それほど広くない室内にぴちゃりという水音を響かせながら、時計の秒針が数周するほどの時間、心地よさそうに受け入れるくせに流されないという、難解で理解しきれないことをいまだにやってのけた幼馴染は、「いつまで
こっちに?」と好きなように会話を始めさせた。
おい、と心でつっこみながらも青峰がそのままにしてしまうのは、口で勝てた試しがないからだ。
「シーズン中でしょう、今」
「明日の夕方まで。ホテルからそのまま行くわ」
「やっぱりそうですか」
言葉とともに軽く息を吐いた黒子は重いですどいてくださいと可愛くないことを言い、青峰の身体をぐいぐいと押し上げる。
力負けをすることなんて有り得ないが、押されるがままに身を起こしてソファに座り直すと、その隣に黒子も腰かける。
外されたボタンを几帳面にとめるくせに、のぞきこんだ目には薄く靄がかかったままだ。
シャツを整え終わると立ち上がり、どこかへ向かう。
黒子が化粧台近くの備え付けのミニ冷蔵庫の中からペットボトルを取り出すのを、青峰はなんとなく目で追いかけた。
入ってきた時から思っていたがこの控室小さ目な割にやけに豪華だ。
何か飲みますか?ドアを閉めながら聞いた黒子は、「と言っても水しかありませんが」と透明なそれを掲げて見せる。
特に飲みたいわけじゃないまま取りあえず頷けば、紙コップに注がれた水が目の前のローテーブルに置かれる。
二個注いだうちの一つを手に持ったままの黒子はもう一度座るわけでもなく、部屋の中を行ったり来たりしながら荷物を鞄にしまいはじめた。
青峰がまたそれを目で追っていると、邪魔になった紙コップを化粧台に置いた黒子が「それにしても」と背を向けたまま言った。
「演奏を聞く為だけに飛んでくるなんて君は相変わらず無茶をします」
「ギリ一日いるっつーの」
「その感覚ちょっと理解できません」
青峰からしてみれば真っ当な主張をすげなく切って捨てられる。
「お前だってこないだ試合だけ見に来て即行いなくなっただろ」
「カナダに行くついでだったんです。君のように海を越えたわけじゃありません」
「間に海がないだけでロスからカナダだって結構だぞ」
なんだかよく分からない貶し合いをしつつ、黒子の手は止まらない。
紙類をまとめてファイルに挟み、小物と一緒に鞄にしまう。
「ボクはいいんです。君のバスケも、バスケをしている君も好きなので」
「それ俺のセリフ。テツがシャコンヌ弾くってのに聞かないなんてありえねー」
「いつだって弾きますよ」
テーブルに置いてあった群青色の手帳を取りに来ながら甘やかすように言われるが、残念ながらそういうことじゃない。
青峰のためだけに弾かれるのも勿論クるものは大きいが大事なのはそこではなく。
「ステージに一人で立ってるのがいーんだよ。満員の客席。そこに座ってる俺。見上げた先の孤高のテツ。もともと曲がお前に合ってるし、難度高いの弾いてるお前は潔癖っぽくて逆にえろい」
さっきも無表情すぎて冷え切ったお前の表情と絶妙に反った背中から腰にかけてのラインのコンボがやばかったと大真面目に言ったら、深いため息が返ってきた。
「…君は本当に」
心底残念そうな声で黒子が言う。
「そんなんいつものことだろ」
青峰がそういう見方しかしないのなんて前からだ。
それでも唯一、黒子の作る音楽――生み出す音の世界だけには引き込まれる。脳裡に情景が思い浮かんだり、身体が熱くなったり、揺さぶられて涙が出たりもする。言ったことはないが。
「そうですね。君が音楽性というものに欠片ほどの興味も持たないのは、もうどうにもならない事なのでしょう」
「テーツー拗ねてんのか?」
違います、と速攻で否定が入る。
人のことを言えないですしと付け加えられれば同意しかない。
音楽性うんぬんはテツも似たようなもんだしなと青峰が思っていると、黒子が「ただ」と言葉を繋げた。どこか寂しげに言う。
「それなのに他のどの音楽家よりもボクを惹きつけてやまないのだから罪なひとです、君は」
それは俺がどれだけバスケしてもお前との連携が今でも恋しいのと同じだ、テツ。
青峰は何も答えないまま立ち上がると黒子に近付く。
すると粗方片づけ終わっただろう部屋の中、そこだけ手つかずのまま不自然開かれているバイオリンケース――肩当てすらついた状態で置かれているバイオリンが目に付いた。
「なんだテツ、弾きたんねーの?」
聞けば黒子の表情がわずかに笑みの形を取った。どちらかというと苦笑に近い。
「少し。あの曲を弾いて平静でいるのはボクだって無理です」
「走り出したい感じ?」
「君の言葉で表現するのなら」
ということはあれか。
来た時もキスの最中もどこか心あらずだったのはずっとバイオリンに奪われてたからか。
若干イラっとなりながらも、まぁ俺も聞きたいしと青峰は自分の心を納得させた。
「じゃあヴィタリで」
「そっちも好きですが気分ではないですね」
「ならツィガーヌ」
「それもちょっと」
好き勝手に曲名をどんどんあげていくが総じて却下される。
おいじゃあ何なら弾くんだよ!?と思いだした頃、しばし無言で考えていた黒子が動く。
隅に置いてあったもう一つのケースを持つとローテーブルの上で開きバイオリンを出した。
黒子がいつも使うものより深い色味を持ったそれに肩当てを付け、弓を張る。開放弦を一度弾いてからさらりと調弦する。
眺めているうちにその見慣れた一連の流れは終わった。
ネックを持って差し出されるバイオリン。
「ボクだけの音楽家さん。久しぶりに協奏曲、お願いします」
「マジか!」
と言いながらつい受け取った。
しかも「どこ?」なんて聞いてしまったせいでテツもすっかり弾くモードに突入している。
「第二楽章を」
「なんだテツ。俺を感じたいのかよ」
他に比べてゆるやかな第二楽章は互いの音を感じたいときによく弾いてきた思い出がある。
開き直った青峰が楽しむように声を低めて黒子の耳元に囁けば、返ってきたのは逆に黒子からの挑発だった。
「分かっているのならはやく弾いて感じさせてください」
「言ったな」
協奏曲――二人のなかでそう呼ぶのは『2つのヴァイオリンのための協奏曲』だけだ。
最近弾いていなかったせいでいつにも増して曲があやふやだがまぁいいだろうと自己完結して構える。
そしてドッペルとも呼ばれるこの曲を奏でる時の不文律通り、青峰がリードし弾き始めた。
軽く息を吸ってゆっくりと大きく動かした弓は、弾く前に拍を数えなかったこともあり案の定テンポが微妙に狂っているのが分かる。
しかももとから“こんな感じ”で曲を覚える青峰の演奏は拍が乱れ音も飛ぶ。
でも気にしない。
十数秒後、1stバイオリンである黒子の音色が重なり、ただの音の集まりにすぎなかった青峰のバイオリンを変える。
バラバラだったテンポは黒子に寄り添おうと落ち着き、このくらいだろうという感覚で伸ばす拍はもう一つの音色となぜかぴたりと絡み合う。
ソファの背に座った青峰が視線を指板から黒子へと移す。
気付いた黒子がちらりと青峰の方を見た。
同時に口元にわずかな笑みが浮かぶ。
高らかに歌う1stのメロディが――黒子の音が、一つの音楽をつくる。
青峰の奏でるバイオリンはなぜかそれを膨らませどこまでも響かせる。昔から。
高揚した気持ちのまま、黒子がゆったりと弓を滑らせテンポをさらに緩めても。
強調のためのダウンダウンや全弓を好きに入れても。
美しい音色が絡み合ったままその先へ進む。
第二楽章の主題の高貴さは品のある黒子によく似合い、自身の持つ透明感と曲の華やかさの対比が際立って美しい。
所々に入れるポルタメントのセンスには合わせるたび聞き惚れる。
何より、ゆるやかな旋律に感じ入るように目を閉じて重なった二つのバイオリンの音を聞く、その姿が青峰は好きだった。
が、如何せん本来バイオリンは手慰み程度。
黒子がやってるからなんとなく一緒に習ったという意識しかない青峰に協奏曲を弾ききる力量はない。
楽譜があればまた話は別だが、今は暗譜の状態で、しかもここの所弾いていなかったせいで覚えていたものも結構欠けている。
崩壊は結構はやく訪れた。
流れのままいけばもうちょいいけるか・・・?と思ったことがいけなかったらしい。
ポジション移動をし忘れそのまま移弦で乗り切ろうとし、いつもと違うことをしたせいで頭から曲が飛んだ。
「あー・・・」
「青峰くんアウトです」
「いやでも頑張ったほうだぜ?」
ダウンの弓を振り切った勢いで曲を止めた黒子がそっけなく言うので弁明する。
ぱちぱちと瞬いた目が青峰をじっと見たあと首を傾げた。
そうでしたっけ?と本気で分かってなさそうな顔をする黒子を手招いて呼ぶ。
左手に持ち替えた弓とバイオリンに当たらないよう一歩分の距離をあけて立たれると、青峰がソファの背に腰掛けているせいで顔が同じ位置にくる。
「頑張ったご褒美をくれるべきだよな」
「ボクの欲求不満はまだ解消されていないんですが」
「おーじゃあ一石二鳥だな」
黒子が何かを言う前にその唇に噛みつく。
一度強く噛んで怯んだところを優しく舐める。
二台のバイオリンが邪魔で抱き込めないのを不満に思いつつ絡まりを深める。
「・・・なにが一石二鳥なんですか」
「だってテツ、俺不足だって言っただろ」
苦しげな様子に唇を離してやればそんなことを言う。
だからすぐに塞いでしまう。
さらに煽るように口内を弄った。
上顎、舌の付け根、裏側。弱い部分を擦り性感を高めさせる。
感じさせ、漏れ出るような声を出させるのは楽しいが、コンサート中から煽られていた青峰からするとしている側もヤばい。
情動のままぴくりと跳ねた身体を右手で抱く。
「ここではダメです……」
欲に染まった声でそんなことを言われても止まれるはずもなく、逃げる唇を追いかけて啄ばんだら、
「…っ…こら」
ドスっと腹に衝撃がきた。
くるだろうなと思っていたにも関わらず、結構な衝撃に青峰が呻く。
「ここではダメです」
「・・・一応わかってた」
だったら最初から大人しくしていてくださいと黒子が呆れたように言い、それはムリと青峰が返す。
離れようとする素振りを見せる身体を右手で抱いたままちゅ、とこめかみにキス。そうすると震えが伝わってきた。
一見冷静そうな黒子に、我慢しているのは自分だけに見えるのが大きな誤りであることは知っている。
「俺のとったホテル、隣なんだけど」
来るよな?と確信を持って聞いた。
頷いたのを確認してから手を放す。
「今すぐは無理なので先に行っていてください」
「りょーかい。…変なのにつかまるなよ」
「あしらい方には慣れていますのでご心配なく」
「それよりも先にバイオリンを片付けましょう。いつキミが投げ捨てるかとひやひやしました」
すっかりいつもの無表情に戻ったテツが言う。
可愛い俺のテツ、はいつでも冷静すぎてちょっと寂しい。
*** *** *** ***
ぱちりと目を開ける。
急速に覚めた眠りのせいか頭が妙にはっきりしていた。
薄暗い室内に視線を巡らせれば見慣れぬ家具に一瞬ここはどこだと考えたが、すぐに日本に帰ってきていたことを思い出す。
時計は最後の記憶の三時間後を示していた。あまり寝てないにしてはやけに目覚めがいい。
顎を引いて胸元の方へと目を向ければ自分の手のひらが伝えてくる感触から予想した通り、淡い色の髪が布団の間からずかに覗いていた。
鎖骨辺りに鼻先を埋めて微睡む細い身体を深く抱き込んで眠ったはずなのに、目が覚めるとほとんど腹部に抱きつかれている形になっているのは、身長差が開いた頃からの幼馴染のくせのようで慣れた。
布団を被った状態で苦しくないのかという心配をよそに、大して気にならないらしい当人に改善する気がなかったせいだ。
今もほとんど全身が隠れた状態でぐっすりと眠っているのだろう、呼吸に合わせて布団がささやかに上下している。
無茶をさせた身体を起こさないように注意しながら、奪われていた右手を取り返しそっとベットを抜ける。
ぐちゃぐちゃに乱れている隣のシーツの上、適当に投げ捨ててあったローブを羽織ってから布団を首下までにかけ直す。
あらわれた表情は起きているときより幼げなのに、ぎりぎりのラインで見えた首筋にはいくつもの色付きが見えた。
そのアンバランスに布団を放そうとしていた手が思わずとまる。
惹かれるままにもっと下まで――いっそ布団など取り払ってしまおうかと邪な考えが脳内を巡るほど、目に映った不均衡には扇情されるものがあった。
途端に、鳩尾あたりのずくんと絞られるような感覚とともに数時間前の記憶が蘇る。
欲情を無言で告げる霞がかったような瞳、あえかな嬌声、感じ入るような細く鋭い喘ぎ、薄ぐらの中で反らされる白い肢体。
脳内と目の前の両方から誘惑を受けて理性がぐらりと揺れた。
が、耐える。
室内は分厚いカーテンに覆われて暗いが、起き抜けに確認した時計は既に9時を過ぎていた。
チェックアウトの時間にしても、これからの予定的にもマズいという正論が働いて布団から手を放す。
ただそのまま離れるのは惜しくてベットに手をついて、片手で額にかかる柔らかな髪を上げる。
あらわれたそこに代わりのように唇を落とした。
ギシリ、という音をさせてから、起きる気配のない寝顔を少し見つめた後ベットから離れる。
リビングルームへ続くドアの、すぐ横にあるボタンを押してエアコンの設定温度を適温に直す。
眠る時は寒いぐらいじゃないと嫌だという我儘によって24℃に冷やされていた部屋は、目覚める頃には十分温まっているはずだ。
繊細な彫刻が施されているひんやりとしたドアノブを押して部屋を出る。
扉は音を立てずに勝手に閉まる。
一歩寝室を出れば開けっ放しのカーテンのおかげで、奥の壁一面のガラス窓から光が入る。
電気をつけなくても明るい部屋の中を歩き、ソファへとまわる。
置かれている鞄を開け適当に探れば、内ポケットに目当てのものを見つけて取り出す。
それを手に持ったままクローゼットの前へ移動し、かけてある自分のジャケットの中から同じように手帳を引っ張り出そうとして千切れそうになった紙に慌てて力を抜き、もう少し丁寧に取る。
二つを持ち、今度は物書きのし易いカウンターテーブルへ向かう。
途中のサイドデスクにあったメモスタンドからペンを借り、背の高いスツールに軽く腰かけた。
それぞれに挟まっている数枚のチケットを横へ置いておき、自分の手帳をぱらぱらとめくってページを開く。
群青の手触りのいいカバーの方も同じ月のページを開き、そこに書かれているスケジュールを自分の手帳へと写していく。
他国での演奏も多い黒子の月間予定はグローバルだ。
だから見慣れない地名も多い。
覗き込んでは写し、を何度も繰り返す。
最終週の『マジバのバニラシェイク100円』というやけに丁寧な字で書かれたそれも書き写してから、それが終われば逆のことをする。
お互いのスケージュルを把握するために手帳の写し合いをするのは、会ったときの決まりになっていた。
どちらが提案したわけでもなくいつの間にかそうなっていたから、正確には決まりでもなんでもない。
にも関わらず、どちらかが時間のある時に必ずこうやって互いの手帳に予定を書き込むおかげで、いつも二人は自分の片割れがどこで何をしているかが分かる。
多忙なそれぞれがわずかな時間の合間を調整して、一日でも数時間でも会いに行くのに必要不可欠であり、だからこそ今回のような無茶な渡航も可能になる。
客演でドイツにいた黒子に、青峰が遠征先のイタリアから会いに行ったこともある。
あるいはちょうど真ん中の位置だったドバイに飛んで半日だけともにいたこともある。
二人にとっては世界中が待ち合わせの候補地だ。
前回会った時から増えているものを全て写し合ってからペンを置く。
そうして横に避けておいたチケットから、バスケの試合分を群青の手帳に挟んで閉じた。
渡す全てに来れるわけじゃないのは百も承知で、それでもいつだって全試合分を用意するのは我ながらやりすぎだと思う。
思ってバカだなと苦く笑ってそのあと、結局同じことを繰り返すのだからもう仕方がない。
例え渡したチケットの席が空席でもそこに最愛の存在の居場所があると目に見えて感じられるのが、どれ程重要であるかきっと誰にもわからない。
さて、とスツールから立って微妙に固まった肩をまわして解す。
二つの手帳をもとの場所へ戻したら、ルームサービスを頼みシャワーを浴びる。
出てくる頃には湯気のたった食事が届くだろう。
そうしたら朝に弱い幼馴染を甘やかしながら起こして、遅い朝食をとる。
一緒にいる時の決まった朝の日常。
いつもの決まったパターンだ。
ちなみに、俺たちが来週も同じような朝を繰り返すことはもう決まっている。
群青色の手帳には、一週間後の月曜日に丸印。
“JL62便東京成田17:10発”
几帳面な字の小さなメモ書きに省略された行き先は――アメリカロサンゼルスだ。
昨日さんざん人を無茶だなんだのと言っておきながら人のことなど言えないだろうスケジュールを思い出し、笑いがもれた。
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