テツ。
そう呼ぶ声がする。
もう二度と呼ばれることがないだろうトーンで甘く、テツ、と。

優しくて楽しい記憶が真っ黒に染められて、絶望し、痛みに胸を掻き毟りたくなるようなものへと変わる。
合わされなかった拳が行き場をなくして、ひとり、コートの上で。

願って願って、望んで。努力して。また願って。ようやく拳が合わさって。君が笑って。バスケがしたいって言った君が嬉しくて。
嬉しくて。
嬉しくて――なのに。

「次に会うのはまた敵としてだ――」

脳裏でこだまするその声に、ぱちり、目を覚ます。
涙が頬を伝って流れた。






*  *  *  *





試合終了のホイッスルが鳴り、次の瞬間音が爆発した――そう思う程の大歓声が場内にこだまする。
ブザービーターで決勝点を入れた火神がすぐ側にいた日向にそして伊月に肩を抱かれともに喜んでいる姿を、黒子はパスを出したセンターライン上に立ったまま見ていた。
嬉しそうに顔を崩して笑う火神、喜んでいる仲間たち。彼らを数秒眺めて、ようやくそこで感覚が現実に戻ってきたように感じた。
無我夢中だった。試合中はただバスケのことしか考えられなくて、ボールと仲間だけに心が向かい、勝つんだという気持ちだけがずっと頭の中にあった。ホイッスルが鳴るその瞬間までただそれだけを思っていた。

悔しさに顔を伏せた洛山の選手が横にいた。聞こえてくる嗚咽と励ましの声。
対照に、喜び笑い肩を抱き合う誠凛のみんなを見て思う。

勝ったのか。

ぼんやりそう思っているうちに腕を取られ輪の中に連れ込まれ、気付いた時には挨拶も終わっていた。
それでもまだ観衆のざわめきは遠く感じたけれど、やっと勝利の実感がわいてきて――現実に心が追いついたと同時にいろんな感情が押し寄せてくる。
その中の一番大きかったものが指先を震わせた。
勝つんだと思っていた。絶対に勝つと。
コートに導いてくれた人、僕に僕のバスケを教え影たれと形付けた人。キセキの世代の絶対的存在だった彼に――赤司に勝ったのだ。
震えが手のひらを上り腕を伝い肩を震わす前に強く拳を握りこむ。じゃないとこみ上げてくるものを抑えられそうになかった。
両手を握り締めじっと前を見据える黒子を火神の声が呼ぶ。
何やってんだ、こっちこいよ。名前を呼ばれただけなのにそう言われた気がして数歩を踏み出した時、背後で床が鳴った。ひそかな音。何の変哲もないスキール音。
それだけなのになぜか分かる。振り返ればきっとそこに赤司が立っていると。
仲間のもとへ向かっていた足が止まり、でも立ち止まったまま振り返るでもなくそこに立ち尽くすと、前髪が影になって周りの様子を遮断した。
顔を伏せるようにしてしまったのは無意識だった。なんとなく今の顔を誰にも見られたくなくて。
火神が名前を呼んだ瞬間に他のみんなからの視線も自分に向かったのが分かったから、きっと監督から木吉先輩から、案じるようなそれが送られているんだろうと思う。

止まったままの僕を動かすのはいつでも火神くんだった。
前方――僕の後方を、まっすぐ見据えながら大股で近づいてきた彼は試合中何度もされたのと同じ強さで肩に手を置いた。熱い手のひらだった。その熱が肩を通してまるで心まで届いたかのように、自然と顔が上がった。
どうしようもなく溢れてくる感情をじっと耐えるせいで苦しげな。あまり人に見せたくないような顔を見られたけれど、彼がそんなことには無頓着なのは知っている。僕の弱さや醜さを否定せず目を逸らさずに見ててくれた人だから。

「行ってこいよ」
合わさった視線だけでどうしてだろう。繋がっている気がした。それに背中を押された気分でこくんと頷く。

後ろを振り返ったら数歩の距離の先に立っていたのは思っていた通りの姿で。
一度だけ息を吐き出す。

何か、変わるだろうか。

期待と不安が胸をよぎる。
赤司といまここで、この試合のあとで向き合ったら。僕たちの、そしてキセキのみんなとの関係は何か変わってくれるだろうか。
そんなことを思いながら一歩を踏み出す。

もう一度君と。もう一度みんなで、僕は――。



あと少しで触れられる位置に立ち赤司を見つめる。覚えているよりも上に向けなければならない視線に時の流れを実感し寂しく思ったけれど、こうして並ぶのは全中以来なのだから当たり前のことなんだと納得させる。
表情からは赤司がどんな気持ちで黒子との対話を望んだのか知れなかった。ただ「まさか俺が負けるとはね」と言った声には少し疲れの色が滲んでいた。
それにいやだなと感じる。疲れたような声も、何より彼の口からでる『負けた』なんて言葉も。勝つんだと決意してそれを現実にした僕が思う資格なんてないのにでもいやだった。
君にそんなのは似合わない。
「君は強いからきっとみんな同じこと思ってます」
「お前はそう思ってないくせに」
「・・・・・・」
返す言葉が咄嗟に出てこなくて黙る。
「それにたぶんアイツらも」
ぽつりと、落とされるように続けられた赤司の言葉。
アイツら――キセキのみんなが本当にそんな勝敗を予想していたとは思えない。気持ちが顔に出たんだろう、それを読み取ろうとするかのように赤司の目が眇められた。
左右で色の違う、でも等しく苛烈な印象を与える二つの瞳。帝光中バスケ部の頃はこんな風にその瞳を見つめることがあるだなんて考えもしなかった。主将としても僕のバスケの創始者としても彼は絶対で。
今日の勝敗と一緒だ。対等に向かい合う今を誰もが予想しなかったに違いない。
「勝てるかどうかは考えてなかったです。ただ君の対面に立つ時が来たらその時は絶対勝つんだって思っていました」
君が負ける姿は見たくないけれど、僕は僕自身を変える為に。変わった自分がみんなを動かすことができるとそう信じて。
「・・・お前は変わらないね」
「そうですか?・・・その言われ方はあまり嬉しくありません」
成長してないって言われてるようでと返したら赤司の方が肩をすくめた。
「テツヤの受け取り方こそ失礼だね。成長してないやつにこの俺が負けたとでも?」
「じゃあどういう意味ですか?」
「分からないのかい」
そう言った赤司の声がなぜか責めているように聞こえた。
「・・・君の言葉運びは僕は苦手です」
言葉にしてくれなければ分からないという僕に「お前の方こそ言葉にしないくせを直せ」と叱られて首を傾げる。
そうだろうか?自分では結構言葉にするタイプだと思っていたから不思議だ。
「何も言わなかっただろう。全中の後も、俺たちに不信感を抱いた時も。お前は自分の気持ちを何も言わなかった」
・・・確かにそうかもしれない。
あの頃は自分の言葉は無意味だと思っていた。届くはずないとも、努力もせず勝手に決め付けていたから。
「今は違います」
「へぇ・・・」
「もうあの頃とは違う」
いろいろなものを込めてそう言った僕を赤司は目を細めて見つめた。


「しかしこれでキセキの世代全員がお前に負けたな」
「・・・僕に、じゃありません」
ひっかかりを覚えて静かに、でも強く否定する。その先に続く言葉を予想した赤司はおもしろくなさそうに片眉を上げたが遮るつもりはないのか何も言わず続きを促す。
「勝てたのは皆がいたからです。このチームだからこそ勝てた」
監督に先輩たち、一緒に頑張る一年のみんな、そして僕の光――誠凛のエースである火神。何があっても譲れない。どんな時でもどんな些細な時でも存在を消したくなくて言葉にする。
「そう言うと思ったよ、お前のプレイスタイルだとそう言うのは必然だろうからね」
「不快ですか?」
わずかな嘲りを含ませた赤司の表情。問いかけながらすっと身体が冷える感じがした。赤司の嘲りは個人技を是としたあの頃と同じ、チームプレーに重きを置かないが故なのかと。
返ってきたのは「別に」という素っ気無い返事だった。どういう意味かを聞き返す前に次が聞こえる。
「ただお前は相変わらずなんだと思っただけさ。相変わらず自分の評価も正当にできないとこが実にお前らしい、とね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・おい?」
「・・・びっくりしました」
思ったままが口から出ていた。
「何が」
「その言い方だと君は僕のバスケを評価してくれてるように聞こえます」
返ってきたのは溜息も一緒にだった。
「馬鹿か。してたさあの頃から」
「・・・・・・!」
「今はもっとしている。いいか」
そこで一度言葉が途切れる。僕は泣きそうだと思った。
「お前がなんと思おうと誰がどう感じようと、俺に勝ったのはお前の力だ」
それを否定することはお前自身でも許さない。

きっぱりと、強く。赤司の言葉に、魂が震えた気がした。

君は僕に与えるだけ与えて。道だけ敷いてその後は興味がないんだと思っていた。たまたま見つけたあると便利なおまけ、個人技を際立たせる為の道具ぐらいにしか考えていないんだと。
でも違ったんですか。君はちゃんと僕のバスケに価値を見出してくれていたんですか。

魂が震えて世界が、自分が作りかえられていくようだった。
きらきら、きらきらと中心で輝いているのはバスケだ。――僕自身の、バスケ。

「・・・そう言ってくれるのなら聞いてもいいですか?」
強張って動かしにくい口で無理やり喋ったせいで思ったより固い声になる。詰問するかのような固さで聞こえたかもしれないけれど実際に含めたのは情けないほどの懇願で。
「・・・赤司くんは今でも、帝光中のあの頃のバスケに何かを思うことはありませんか?」
「・・・・・・」
「僕のバスケを評価してくれるの、なら・・・」
あるって言ってください。個人の上手さだけじゃない、常勝の言葉だけじゃない、他にも大切なものがあるって言って。縋りつくように心の中で願う。
赤司は何かを言おうとし、でも何も言わないまま口を閉じた。
どんな言葉を飲み込んだのか、感情を読み取らせないポーカーフェイスをそれでも探るように見つめたとき赤司が小さく笑った。はじめての、顔。優しさや温かさが根底にある小さな笑み。
それを見ただけで胸が詰まった。
「テツヤとするバスケが他の誰とするよりも、きっと楽しいだろうな」

その言葉がすごく嬉しいですという気持ちは大きすぎて言葉にならなかった。


あかしくん。
泣いてなんかいないけれど呼びかける声が震えた。
ねぇあかしくん。僕は僕のバスケが好きです。
言ったら驚いた顔をして見つめられた。信じられないものを見ているかのような反応に思う。
そうか君は知っていたんですね。誰にも言ったことはないけれど僕はずっと自分のバスケが好きじゃなかった。いつでも青峰くんや火神くんのようなプレーがしたいってあんなバスケが理想だって思っていた。

でもいまやっと好きだって胸を張れる。

「君たちに出会ってあの時があって、今ここにいて、そして君が目の前にいて。君が僕とのバスケを楽しいって思ってくれて、言ってくれて。はじめて自分のバスケが好きだってそう思えました。
赤司くん。僕は今バスケが楽しい。だから幸せです。僕にそんな幸せを、バスケをくれたのは君です」
だからありがとうございますと言った視界がぼやけた。そのせいで僕の言葉を赤司がどんな顔で聞いてくれていたのか分からないけど、次の瞬間抱きしめられた。だから、いい。僕が伝えたかったことが届いたことも赤司の思いも、全部抱きしめてくれた腕が教えてくれるような気がした。
俺のほうこそ。呟くような赤司の声が揺らいでいるのを、気付くなと自分に命令する。じゃないと絶対泣いてしまうから。
俺たちを、俺を嫌いにならないでくれてありがとう。
そんなの当たり前ですっていう言葉も声にならなかった。

「お前にとってバスケが楽しいものなままでよかった」





離れていった腕の持ち主はそのまますぐに反転して、顔をあげたときに見えたのは洛山という校名を背負った背中だけだった。
早足でコートを立ち去りベンチへ、そしてそのまま一直線に場内から見えなくなる。
変わりに近づいてくる足音。
「お前汗冷えるぞ。拭け」
乱暴にタオルをかけられて視界が一面の白色に変わる。
「火神くん」
「なんだよ」
「・・・火神くん」
「・・・・・・」
「火神くん」
「よかったな」
ぽんと頭に手が乗せられる。僕がタオルの左端で顔を拭うのを見ない振りをして「行くぞ」と促すので、言われるままのろのろと足を動かした。
ベンチに集まっていたみんなに背中を肩を頭を叩かれたり撫でられたりしながら一緒に控え室に向かう。タオルを頭から外さない僕の周りを先輩たちが取り囲むようにして移動していたから、わいわいと楽しそうな声が頭上から降ってくるのが嬉しかった。
手渡されたペットボトルを横に置いてぼんやりと控え室のベンチに座ると、渡した当人は反対側の端に同じように座り同じ銘柄のボトルを豪快に飲み干している。
喉は渇いているのに心が満ち足りていて他には何も欲しくなかった。いつもは、ちゃんと飲め疲れてても飲めと意外と面倒見のいい火神も何も言わない。


小さな電子音が聞こえた。
それがロッカーの中からの聞きなれた着信音だと気付いてはっとする。
予感がした。
みんなの喜びに騒ぐ声を耳で聞きながら意識の全てが携帯に向い、急く気持ちを押し殺しながらドアを開けて点滅を繰り返しているそれを握った。









ぽたりぽたりと液晶がぬれる。
喉の奥からせり上がってくる嗚咽が止められなかった。









ねぇみんな。僕はみんなとまたバスケがしたかった。

チームとしてバスケをしたかった。そこに自分の居場所が欲しかった。必要だと言ってほしかった。

君に、僕と一緒にバスケがしたいって思ってほしかった。

楽しいなと笑う隣で、僕も笑って。

もう一度一緒に―――・・・。










FROM:紫原 今なら黒ちんとバスケの話するのも嫌じゃないかもしれないー。


FROM:緑間 今日の試合を見ていて帝光の時のお前のパスを思い出したのだよ。・・・手が疼いて仕方がない。


FROM:黄瀬 今度ストバスしようっス。絶対!・・・絶対。


FROM:青峰 お前のパス受けてーよ。テツ。また一緒にお前とバスケがしたい。







【きみが願いきみが祈りきみが求めた奇蹟】




「月夜」さま 選択式お題より